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カテゴリー「金沢の思い出」の72件の記事

2017年8月15日 (火)

来し方を想う日

 時々小雨が降って来る。
00101 16:00の空

 72年前の金沢はどんな空模様だったのだろう。近所の人達が集まったお隣さんの薄暗い茶の間で一緒に「玉音放送」を聴いていた。勿論就学前の身、意味が判る筈も無かった。ただ、その後アメリカのヒコーキが晴れ渡った夏空に何機も右に左に行き交っているのを2階の窓からぼんやり眺めながら戦争が終わったことを理解した。

 この前年、門司から一家4人で金沢の祖父宅に疎開。祖母と合わせて6人家族となったが、兼六園へおにぎりを持って花見に連れて行ってくれた祖父は終戦を知らずに旅立った。数年後、弟が生まれ私が金沢を離れるまで再び6人家族が続いた。

 今日は静かに来し方を想う日である。

2017年8月 1日 (火)

8月と聞くと…

 普段は2~3日か精々1週間程度の範囲で思い返していることが多いが、8月の声を聞くとそれが一挙に1945(昭和20)年前後まで飛んでしまう。勿論、断片的にそれ以前のことも思い返すことはあるが…これまでの人生でのいろいろな出来事を思い出す切っ掛けになるのが私にとっては8月と言うことになる。

 隣家のラジオの前で近所の人達と一緒に「玉音放送」を訳も分からず聴いたシーンが影絵のように甦る。何日か後、2階の窓から快晴の空を右に左に行き交う米軍機をただ見ている自分。(これらは以前当ブログに書いた)

 ご近所との声の掛け合いも朝夕の挨拶からちょっとした助け合い。向こう三軒両隣の繋がりは強いものがあった。今ならプライバシー云々…と嫌がられるようなことが必要な時代だった。勿論、子供たちの数も圧倒的に多かった。よその子でも本気で叱る大人がそこここに居た。(我が母校の小学校は当時生徒総数約900人、現在は100人前後)

 水泳は古橋、橋爪の日本勢とコンノ(日系アメリカ人)とのデッドヒートは大人も子供も一番の関心の的。敗戦で打ちひしがれた日本人に勇気と元気を与えてくれたと後に評価された。しかし、少し時期は違うかもしれないがやってきた3Aのサンフランシスコ・シールズに日本のプロ球団が全敗してガッカリしたことも思い出す。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA#.E8.A9.A6.E5.90.88.E7.B5.90.E6.9E.9C

 大相撲では横綱・吉葉山の印象が強い。大関で全勝優勝し横綱に昇進したが、その後優勝なしで引退だったと記憶している。その伝記はt映画にもなった。鏡里、千代の山と思い出すのは横綱。巨漢の大内山やさば折りが得意な大起、そして当時唯一郷土出身の幕内力士だった清惠波の勝敗はいつも一番の関心事だった。

 プロレス力道山の活躍はもう少し後になる。

 (…小中学校に通っていた頃を思い出すままに…)

2017年4月26日 (水)

1番機出動!

戦後間もない頃の子供時代金沢に住んでいた。家族は祖母と両親と妹だ。暫くして弟が生まれその後は6人家族が長く続いた。祖母は農家の出身だったがその頃は何時も2階の1室で漁網を編む内職に精を出していた。父は勤め人で専業主婦の母は食事・弁当の用意から洗濯・掃除・買物と一日中忙しくしていた。冬にもなると母の手はあかぎれだらけで痛々しいばかりであったと今になってしみじみ思い出す。
 でも、病気知らずの元気さは母が1番…朝の口癖は「1番機出動!」「2番機出動!」と言って父や僕らを送り出す。「ハンカチ・ハナカミ(ちり紙)持った?」と必ず確認の一言。そして、「背筋を伸ばしてっ!」ともう一言が飛んでくる。

その頃の楽しみは氏神様の春秋のお祭り…祖母からはお小遣い50円を貰った。
50ensayu (画像はwebより)

2017年2月14日 (火)

戦闘?武力衝突?

 先の戦争が終結した翌年国民学校1年生に。国語はカタカナで始まった。同学年の生徒は150人超で3クラスに分けられ私は1年3組に。担任はふくよかな女先生でグリーンの上下を着用されていた印象が強い。
 で、最初の頃に習った唱歌が「ガッコウ」… 全員で無邪気に大声を出して歌った。(因みにこれは日本で一番短い唱歌だと聞いたことがある…?)

 ①♪ミンナデ ベンキヨウ ウレシイナ コクミンガッコウ イチネンセイ
 ②♪ゲンキデ タイソウ イチニッサン コクミンガッコウ イチネンセイ

 当時、取っ組み合いの喧嘩より集団で「ワーッ!」と大声をあげグループ同士が小競り合いをすることが多かった。それが校内となると先頭に立つものが教室に備えられている木製の棒の先端に金属のフックが付いたフック棒 (相当長いものに感じていたが精々6尺…180センチほどのものだったと思う) を持つや否や「1組をやっつけよう!」などと叫び教室を飛び出す格好をする。それを見て殆んどの男子が後に続く…怖がりの私は後ろの方からついて行く。しかし、実際には棒での突きあいなどは無く互いに脅し合う程度だったようだ。そのことで怪我をして大騒ぎになったなどと云うことは聞かなかった。

 その母校…当時は単純計算で900人超の生徒が居たが、今は100人余だ。子供たちの元気な声が溢れていた頃が懐かしい。

2017年1月 9日 (月)

腑に落ちる

 今日は成人の日だ。新成人の皆様おめでとう!私の時代は1月15日だったが、いつの頃からか第2月曜日となった。今以てピンとこない。

 昭和35(1960)年に出身小学校の講堂(体育館)に満20歳の男女が集った。当時は当日までにその年齢に達していないと翌年となった。従って学年が違う人達も一緒だったことになる。(これは後年改められたようだが…)
 

 で、この時期になると思い出すのが事前の身体検査だ。市の保健所に集められ上半身裸で下着だけとなり身長・体重と進み、その後1列に並ばされ医師の前へ進み大切なものを目視点検されたのだ。何の抵抗もなく受けたが不思議な感じがし出したのは後年になってからである。そして最近このことは兵隊検査のやり方だったのではないかと思うようになった。 (子供の頃、兵隊検査と云う言葉はまだ日常の中で使われていた)

 こうなったら調べないとスッキリしない…幸い今はネットがある。その結果…

徴兵検査は、越中ふんどし1枚になって、身長、体重測定、視力検査の後、軍医の前でふんどしを脱いで、痔(じ)や梅毒を検査する方法に加えて、身上についても行われた。http://tamutamu2011.kuronowish.com/tyoheisei.html (参照web)
 

とあった。但し、私たちの時は後ろの方の検査は無かった。

そして、やはりそうだったのかと腑に落ちた。終戦から15年も経ってまだこの様な検査が続いていたことになる。

因みに市からの記念品は直径12センチほどの絵皿、真ん中に市章。そして市章を囲むように、の4文字だった。もう手元には無い。(この記念品のことは以前書いた)

Photo 金沢市市章

2016年7月 4日 (月)

水兵リベー砲

 小学校のK校長は物静かで威厳があったが心優しい印象もあった。中学校3年を過ごした後、高校に入学すると化学の先生がその校長のご子息だった。やはり紳士然とした物静かな方で授業の際はいつも白衣で教壇に立った。そこで習った元素表の暗記法は今でも覚えている。

 「水兵リベー砲探知大船名前ある尻に異様な黒ありか痒し」…(先生がこの様に黒板に書いたのではなく口伝だった=スイヘリベーホタンチオオフネナマエアルシリニイヨウナクロアリカカユシ

 端正な顔立ちの今風で云えばイケメン先生がニコリともせず何度も言って聴かせるのが可笑しかった。その先生は数年の後、職を得て民間会社に移籍されたと聞いた。ちょうど日本が高度経済成長の入り口に立った頃だ。

 私のこれまでの人生では元素表そのものを活かすことは無かったが…

 で、最近、113番元素の命名権が日本に…と云うニュースがあった。ニホニウムorジャポニウムらしい…

 尚、暗記法には諸説あるが出だしを検索すると‘水兵リーベ…’が多い。

2016年6月 9日 (木)

ふるさとのはなしをしよう

 昨夜、就寝前に北原謙二さんの唄を聴いていた。彼がヒットを飛ばしていた頃は洋楽が好みだったが、この頃は昭和の匂いが懐かしく響くこの時代の唄も良いなぁーと思うようになった。先ずゆっくりしたテンポに心の波長が合う。

で、今朝5時前耳元で外れかかったイヤホーンから♪男はつらいよ♪が… そして、起きたら雨模様… こう云う日は昔のことがランダムに思い出される。
 小学生の頃、冬になると一度は風邪を引いて町医者の往診をうけたこと。投薬を受け子供ながらに38℃超の高熱に辛いなぁーと思いながら寝ていたことなど…ところが、ある年から臀部に注射を受けるようになって、薬ではなかなか下がらなかった熱が時間を経ずにスーッと引くようになった。医師は「ペニシリン」と言っていたように思う。映画「三丁目の夕日」の宅間先生(三浦友和)を観る度に子供の頃に往診してくださった醫師のS氏の顔が浮かんでくる。鼻の下に髭を蓄え威厳がありニコリともしなかったが町の人々は頼りにしていた。

 

2016年2月19日 (金)

ドドーン!

寝床に入ったと思ったら「ドドーン!」の後、間髪入れず「ピシャー!」と飛び散る音に漸くやってくる春の兆しを感じる。大屋根から雪の塊が下屋に落ち飛び散ったのだ。そして、寒さが緩んでやがて根雪の間から黒い土が見えるようになると心が浮きだし嬉しくなる。

小学生だった戦後間もなくの金沢はよく雪が降った(ように思う)。当時、雪掻きと云えばほぼ人手に頼ることが多くたびたび市電も止まった。新しい年が明け一晩に30センチ以上積もるようになると「これは根雪になるねぇー」と話し合って覚悟を決めたものだ。祖母からは「2階から出入りしたこともあるよ…」などの昔話が現実味を帯びる。市電通りから少し入った辺りまではコンクリート舗装がなされていたが町内の生活道路は殆んどが未舗装だった。根雪になると新しく積った雪を除けるのが精一杯…屋根の雪下ろしをするようになると一段高く積もった雪道を歩くようになる。昭和36年半ばに金沢を離れた私はその後の「38豪雪」は経験していない。
Kshiden05b_2 雪の犀川大橋 (画像は Q Gallery Kanazawaより)

今日から24節気の「雨水」…こんなことを思い出した。

2016年2月 7日 (日)

加州相互銀行

中学生当時…1952(昭和27)年~…それは金沢市橋場町三叉路交差点の一辺にあり、クラシックなコンクリート造りの小ぶりな3階建てだった。家から学校までは1.5キロほど…通学には15分を要したがこの建物までは5分ほどだった。まだ子供の私には用の無い施設だったが何時までもそこにあると感じさせる頑丈そうな印象があった。

で、昨朝、ラジコで北陸放送を聴いていたら「金沢文芸館」の紹介があり、本来は作家・五木寛之さんの冠を付けたかったのだが、ご本人から辞退したい旨がありこの名称になったとの説明がされていた。この時は場所なども聞いていなかったが「文芸館」なる建物はひょっとしてあの旧・加州相互銀行なのではないかと直感した。そして、今日改めてググってみると感は当たっていた。建物自体は1929(昭和4)年建築。無尽加州相互銀行石川銀行(その後、破綻)と云う歴史を辿っていて現在は外観を活かし改装したとあった。
01 (画像はwebより借用)
Kshiden3501 1965(昭和40)年頃・中央やや左が加州相互銀行(画像はQ Gallery Kanazawaより) 3階窓下部に加州相互銀行の横看板が見えています。

 次回は是非訪れてみたい…

2016年1月29日 (金)

コハゼの思い出

雷鳴、強風、そして間もなくトタンの屋根に当たるアラレの音…そして静かになったと思ったらボタン雪が景色を遮る。昭和20年代、金沢の冬はただ冷たく寒かった。火鉢の炭火と炬燵(練炭・タドン)が暖をとる手段だった。足元はまだ昔ながらの木綿の足袋…子供用はコハゼが3枚だったと思う。色は黒で底は白(女子用は赤などがあった) そして、指先が直ぐ破れた…それを母が繕った。元旦の朝には枕元に新しい下着とともに足袋も添えられていた。で、そのコハゼ…金色だったように思うが銀色もあったかも?足袋の大きさの単位は文(もん)だった。1文が2.4センチだから小学生の頃は7~8文を履いていたのだろうか?

中学生になる頃には靴下を履くようになり足袋はその後殆んど使うことがなかった。

小鉤(コハゼ)は布に縫い付けられた爪型の小さな留め具。国字とも表記される。
 
足袋(地下足袋含む)、手甲、脚絆などの衣服類においては、着用時に、もう一方の布にある掛け糸(受け糸)に引っ掛けて、固定する。その他、袋類や書物の帙にも用いられる。 (ウィキペディアより)

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