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カテゴリー「金沢の思い出」の76件の記事

2020年8月19日 (水)

桜の木

 小学校上級生になると街中へ先生の引率で映画鑑賞に出掛けた。まだテレビもない時代…この上もない楽しみだった。

 中の橋を渡り川沿いの茶屋街・主計町(カズエマチ)を少し行き途中から細い路地に入る。左そして右と折れ、暗がり坂(難なく上れるほど短い…)を上りきると久保市乙剣宮の本殿脇に出る。参道を抜けた先の電車道(北陸鉄道・金沢市内線)を武蔵が辻方面に向かって歩く。程なく昭和劇場… 今では何を観たのか忘れてしまった…
20080901 
 そして、記憶に残る場面はその帰り道で… ワイワイガヤガヤと同じ道順で学校へ。当時は橋上にも小石がそこここに転がっていて数人の男子が橋の袂の(〇囲い)の枝に止まっている数羽のスズメに向けて欄干越しに小石を投げた。ところがK君は「当ててみせるぞ!」とエイヤーッ!…1羽に命中… 得意げな本人をよそに皆それぞれの心持ちで成り行きを見守る。

 一瞬、バタバタと川面に向けて落下していったが、着水直前に元気に羽ばたいて急上昇… ホッと安堵!

 またワイワイガヤガヤが始まった…

 今朝、偶々覗いたライブ映像から遠い遠い昔の1シーンを思い出した。

 (この件は以前書いた)

2020年7月 4日 (土)

南端国道(なんたんこくどう)

 電車道…行き交う車も少ない当時(昭和20年代)の国道8号を金沢市電は高道町~森下町~浅野川大橋と各電停でお客を拾いながらやって来る。
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 やがて4系統(鳴和~野町駅前)は浅野川大橋を渡ると橋場町(三叉路)から短い坂を上り尾張町~武蔵ケ辻。
左に折れて南町~香林坊~片町から犀川大橋を渡り広小路~野町4丁目へ。国道8号はそのまま直進し有松へ…この野町4丁目~有松間を当時、南端国道と称していた。

 (車両の塗色は昭和36年頃~)

2020年2月16日 (日)

雪のふるまちを

 子供の頃の金沢はよく雪が降った。根雪になることも珍しくなくゴム長を履いての通学だった。そして、ラジオから「♪ 雪のふるまちを ♪」が流れていて一層寒々とした気分になった。

 中学の音楽の時間、Y(男)先生がこの曲を合唱曲として取り上げ何度も練習させられたことを覚えている。七三分けた頭髪をポマードでキッチリ固め浅黒い精悍な顔つきのスラッと背の高い先生だった。クラス担任ではなかったのでそれ以上の想い出はないが、今日ラジオから流れたこの曲を聴いてY先生を懐かしく思い出した。

 後年、ダークダックスのカバーで聴くことが多かった。

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2018年2月17日 (土)

新聞記事より

 中日新聞web版に1人の方の訃報が載っていた。
180217j 金沢版・2018.02.17

 徒手体操「若い力」の振り付けをされた方だ。小学校6年生になると金沢市総合体育大会で演じるため各小学校で何度も練習させられたことが思い出される。このブログでも書いたことがあるが、当時(昭和20年代)は男子のみの演目で上半身裸、下は白のトレーニング長パンツだった。

 Youtubeにもいろいろアップされているが、当時とはどれも少しずつ違って見える。明らかに違うのは子供達の体格だろう。私たちの頃は余分な筋肉など付いているはずもなく、あばら骨が… 一番の華は♪ハーナーモ カガヤケ…♪のところでパチーンと頭上で両方の手のひらを合わせるところだった(先生に何度も指導された)。会場中にその音が響き渡り演じている方も気分が高揚した。

 今はどの記事にも「踊る」と表現されているが少し違和感がある。

 で、改めて今朝検索した中で、昔の雰囲気に似ているのはコレだった。

 稲場さんのご冥福をお祈りいたします…合掌!

2017年8月15日 (火)

来し方を想う日

 時々小雨が降って来る。
00101 16:00の空

 72年前の金沢はどんな空模様だったのだろう。近所の人達が集まったお隣さんの薄暗い茶の間で一緒に「玉音放送」を聴いていた。勿論就学前の身、意味が判る筈も無かった。ただ、その後アメリカのヒコーキが晴れ渡った夏空に何機も右に左に行き交っているのを2階の窓からぼんやり眺めながら戦争が終わったことを理解した。

 この前年、門司から一家4人で金沢の祖父宅に疎開。祖母と合わせて6人家族となったが、兼六園へおにぎりを持って花見に連れて行ってくれた祖父は終戦を知らずに旅立った。数年後、弟が生まれ私が金沢を離れるまで再び6人家族が続いた。

 今日は静かに来し方を想う日である。

2017年8月 1日 (火)

8月と聞くと…

 普段は2~3日か精々1週間程度の範囲で思い返していることが多いが、8月の声を聞くとそれが一挙に1945(昭和20)年前後まで飛んでしまう。勿論、断片的にそれ以前のことも思い返すことはあるが…これまでの人生でのいろいろな出来事を思い出す切っ掛けになるのが私にとっては8月と言うことになる。

 隣家のラジオの前で近所の人達と一緒に「玉音放送」を訳も分からず聴いたシーンが影絵のように甦る。何日か後、2階の窓から快晴の空を右に左に行き交う米軍機をただ見ている自分。(これらは以前当ブログに書いた)

 ご近所との声の掛け合いも朝夕の挨拶からちょっとした助け合い。向こう三軒両隣の繋がりは強いものがあった。今ならプライバシー云々…と嫌がられるようなことが必要な時代だった。勿論、子供たちの数も圧倒的に多かった。よその子でも本気で叱る大人がそこここに居た。(我が母校の小学校は当時生徒総数約900人、現在は100人前後)

 水泳は古橋、橋爪の日本勢とコンノ(日系アメリカ人)とのデッドヒートは大人も子供も一番の関心の的。敗戦で打ちひしがれた日本人に勇気と元気を与えてくれたと後に評価された。しかし、少し時期は違うかもしれないがやってきた3Aのサンフランシスコ・シールズに日本のプロ球団が全敗してガッカリしたことも思い出す。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA#.E8.A9.A6.E5.90.88.E7.B5.90.E6.9E.9C

 大相撲では横綱・吉葉山の印象が強い。大関で全勝優勝し横綱に昇進したが、その後優勝なしで引退だったと記憶している。その伝記はt映画にもなった。鏡里、千代の山と思い出すのは横綱。巨漢の大内山やさば折りが得意な大起、そして当時唯一郷土出身の幕内力士だった清惠波の勝敗はいつも一番の関心事だった。

 プロレス力道山の活躍はもう少し後になる。

 (…小中学校に通っていた頃を思い出すままに…)

2017年4月26日 (水)

1番機出動!

戦後間もない頃の子供時代金沢に住んでいた。家族は祖母と両親と妹だ。暫くして弟が生まれその後は6人家族が長く続いた。祖母は農家の出身だったがその頃は何時も2階の1室で漁網を編む内職に精を出していた。父は勤め人で専業主婦の母は食事・弁当の用意から洗濯・掃除・買物と一日中忙しくしていた。冬にもなると母の手はあかぎれだらけで痛々しいばかりであったと今になってしみじみ思い出す。
 でも、病気知らずの元気さは母が1番…朝の口癖は「1番機出動!」「2番機出動!」と言って父や僕らを送り出す。「ハンカチ・ハナカミ(ちり紙)持った?」と必ず確認の一言。そして、「背筋を伸ばしてっ!」ともう一言が飛んでくる。

その頃の楽しみは氏神様の春秋のお祭り…祖母からはお小遣い50円を貰った。
50ensayu (画像はwebより)

2017年2月14日 (火)

戦闘?武力衝突?

 先の戦争が終結した翌年国民学校1年生に。国語はカタカナで始まった。同学年の生徒は150人超で3クラスに分けられ私は1年3組に。担任はふくよかな女先生でグリーンの上下を着用されていた印象が強い。
 で、最初の頃に習った唱歌が「ガッコウ」… 全員で無邪気に大声を出して歌った。(因みにこれは日本で一番短い唱歌だと聞いたことがある…?)

 ①♪ミンナデ ベンキヨウ ウレシイナ コクミンガッコウ イチネンセイ
 ②♪ゲンキデ タイソウ イチニッサン コクミンガッコウ イチネンセイ

 当時、取っ組み合いの喧嘩より集団で「ワーッ!」と大声をあげグループ同士が小競り合いをすることが多かった。それが校内となると先頭に立つものが教室に備えられている木製の棒の先端に金属のフックが付いたフック棒 (相当長いものに感じていたが精々6尺…180センチほどのものだったと思う) を持つや否や「1組をやっつけよう!」などと叫び教室を飛び出す格好をする。それを見て殆んどの男子が後に続く…怖がりの私は後ろの方からついて行く。しかし、実際には棒での突きあいなどは無く互いに脅し合う程度だったようだ。そのことで怪我をして大騒ぎになったなどと云うことは聞かなかった。

 その母校…当時は単純計算で900人超の生徒が居たが、今は100人余だ。子供たちの元気な声が溢れていた頃が懐かしい。

2017年1月 9日 (月)

腑に落ちる

 今日は成人の日だ。新成人の皆様おめでとう!私の時代は1月15日だったが、いつの頃からか第2月曜日となった。今以てピンとこない。

 昭和35(1960)年に出身小学校の講堂(体育館)に満20歳の男女が集った。当時は当日までにその年齢に達していないと翌年となった。従って学年が違う人達も一緒だったことになる。(これは後年改められたようだが…)
 

 で、この時期になると思い出すのが事前の身体検査だ。市の保健所に集められ上半身裸で下着だけとなり身長・体重と進み、その後1列に並ばされ医師の前へ進み大切なものを目視点検されたのだ。何の抵抗もなく受けたが不思議な感じがし出したのは後年になってからである。そして最近このことは兵隊検査のやり方だったのではないかと思うようになった。 (子供の頃、兵隊検査と云う言葉はまだ日常の中で使われていた)

 こうなったら調べないとスッキリしない…幸い今はネットがある。その結果…

徴兵検査は、越中ふんどし1枚になって、身長、体重測定、視力検査の後、軍医の前でふんどしを脱いで、痔(じ)や梅毒を検査する方法に加えて、身上についても行われた。http://tamutamu2011.kuronowish.com/tyoheisei.html (参照web)
 

とあった。但し、私たちの時は後ろの方の検査は無かった。

そして、やはりそうだったのかと腑に落ちた。終戦から15年も経ってまだこの様な検査が続いていたことになる。

因みに市からの記念品は直径12センチほどの絵皿、真ん中に市章。そして市章を囲むように、の4文字だった。もう手元には無い。(この記念品のことは以前書いた)

Photo 金沢市市章

2016年7月 4日 (月)

水兵リベー砲

 小学校のK校長は物静かで威厳があったが心優しい印象もあった。中学校3年を過ごした後、高校に入学すると化学の先生がその校長のご子息だった。やはり紳士然とした物静かな方で授業の際はいつも白衣で教壇に立った。そこで習った元素表の暗記法は今でも覚えている。

 「水兵リベー砲探知大船名前ある尻に異様な黒ありか痒し」…(先生がこの様に黒板に書いたのではなく口伝だった=スイヘリベーホタンチオオフネナマエアルシリニイヨウナクロアリカカユシ

 端正な顔立ちの今風で云えばイケメン先生がニコリともせず何度も言って聴かせるのが可笑しかった。その先生は数年の後、職を得て民間会社に移籍されたと聞いた。ちょうど日本が高度経済成長の入り口に立った頃だ。

 私のこれまでの人生では元素表そのものを活かすことは無かったが…

 で、最近、113番元素の命名権が日本に…と云うニュースがあった。ニホニウムorジャポニウムらしい…

 尚、暗記法には諸説あるが出だしを検索すると‘水兵リーベ…’が多い。

より以前の記事一覧