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カテゴリー「思い出すこと…」の26件の記事

2016年7月 3日 (日)

名鉄扶桑駅

 1963(昭和38)年4月、それまで市電・安田車庫前にあった大正年間建築と思われる木造2階建てから新築の寮に移った。周りを桑畑に囲まれた田舎です。通勤は扶桑駅から…
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 新名古屋駅(現・名鉄名古屋)まで普通電車で4~50分掛かった。当時からラッシュ時の2両編成普通電車は満員で時には連結部分に立ち、そのドアで仕切られた空間は格好の喫煙場所 smoking だった。しかし、連結器の上の鉄板は不安定で随分揺れたことを覚えている。(今となっては若気の至りだが…)

 このにはほろ苦い想い出の数々が…
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 あれから50数年…想い出は遠ーい遠ーい時空の彼方へ…

2015年10月31日 (土)

思い出の駅弁

 SCへ小用事を兼ね‘ちょい散歩’… 少し遠回りをして… と、桜がチラホラと… シキザクラ(四季桜)かな?
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 陸橋から大通り を1ショット camera ! ちょうど日が射した。
01001 渡り終わって店内 へ… 目的はコレ!
01201 北陸本線 敦賀駅 塩荘 鯛寿司 は外せない。手に取っていたら見知らぬ年輩のおじさんから「そう、これだよね」と話し掛けられた。それぞれに思い出のある駅弁。その昔、金沢からの帰り、特急「しらさぎ」車内販売で必ず買った一品!その車内販売も今はもう無い … bearing … らしい。

2015年10月17日 (土)

エア(ライン) バッグ

1961(昭和36)年 名古屋へ。確たる将来の見通しもなく伝手を頼って就職した。初任給は7000円ほどだったが寮生活は楽しかった。通勤は市電で40分…長閑な時代。地下鉄は既に名古屋駅前~栄の間が開通していたが、市内の移動はまだ市電とバスが主役を担っていた。

駅前には大名古屋ビルヂング、毎日ビル、豊田ビルなどが景観を保っていたが、一歩入ると低層の建屋も多くあった。 で、職場の近くには数社の外国エアラインの事務所があり、その社員の方と顔なじみなった。当時は1ドル360円の時代…海外旅行なんて思いもつかなかったが、その社員の方からエア(ライン)バッグ を譲ってもらうことがあり同僚とアミダくじの対象とした。人気はパンナム(PANAM)のバッグ。細身でカッコ良かった。8年前引っ越すときに処分してもう手元には無い。そして、もう1つ…SAS(スカンジナビア・エア・システム)も持っていた。
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Sas_01 (画像はwebより 一部筆者加工)

 

ふと、エア(ライン)バッグ のことを思い出した。

2015年2月 7日 (土)

起床時刻

 20代~30代前半は夜勤もあって、出勤に合わせた起床時刻だったり、前日の勤務状態に依って睡眠時間は長短バラバラだった。その後はほぼ日勤の職場だったが、結構長時間勤務になることも多かった。

 で、目覚ましの設定時刻だが終盤10年ほどは7時10分。そして、職を辞してからは7時40分 と30分遅くした。(8時のゴミ出しが基準) 。 就寝時刻は相変わらず深夜0時ごろだから、睡眠時間は7時間余と云うことになるが、その日に依ってグッスリ感は様々だ。耳元にはイヤホーンがあり「NHK第一」が付けっ放しにしてある。

 今朝はゴミ収集もなく目覚ましはなし。ラジオ体操を微かに聴いていて、アナウンサーの「6時55分です」も聴いていた。しかし、その後また眠ったようだ。目が覚めたら8時10分になっていた。こうなると毎朝のルーティーンが順送りになり、歩きに出るのも遅くなる。

 空には雲が多く薄日が差している。時計回りの周回コースを… 中通り から大通りとの交差点 を右折して緩い上りを行く…
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 全速でヤングランナー が擦れ違う… やがて、大きな交差点手前からSCのオープンデッキ を通り、再び大通り に出て南下…
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 間もなくのT字交差点 を…
01101 横断し、更に右歩道へ渡って帰路に就く。と、今朝はよそ見もせず真面目に歩いた。

 と云うことで…10440歩…でした。

2015年1月22日 (木)

尾張四観音と恵方

 荒子観音甚目寺(じもくじ)観音龍泉寺観音笠寺観音尾張四観音だ。そして、今年の恵方荒子観音となっている。勿論、その中心は名古屋城 だ。
Ehou (←笠寺観音HPよりお借りしました)
 節分にはどの寺院も賑わうが、特に恵方に当たった観音様は参拝者でごった返す。

 で、昭和40年代(1965年~)約7年間、笠寺観音 の近くに住んでいた。名鉄電車は本笠寺駅、名古屋市電は「笠寺西門前」が最寄りの停留所で、節分祭には臨時便が次々と満員の参拝客を運んできた。

 住処の直ぐ前は旧東海道。近くには一里塚もあり、もう少し江戸方向へ歩けば鳴海の宿だった。今でも鳴海絞り で少しは知れている。

 小さな借家は6畳と4畳半に3畳ほどの台所。風呂は木の浴槽で風通しの良い小屋の中にあり、オガライト が燃料だった。TVは勿論モノクロ。デビッド・ジャンセンの「逃亡者」を楽しみにしていた。

 人生の10分の1はこの地での生活。思い出すと懐かしい。

2014年12月29日 (月)

いただきます!

 1日が慌ただしく過ぎてゆく。そして、1年があっという間だ。狭い住処で何をすると云うこともないのだが、歳末はそれなりにやることが出てくる。

 今朝は雨降りで歩きは中止… しかし、新聞日曜版の「間違い探し」や「クロスワードパズル」をのんびりとやっていたら晴れてきた。そこで動き出す。気になっていたキッチン換気扇のクリーンアップや吸気口の点検などを進め、午後は往復2キロを買物に… 更に、車をSCに置いて、郵便局に postoffice 立ち寄ったり… ホッとしようとスタバに行くと行列が外まで… 漸くこちらでちょっと休憩…
00101 ここでの光景…パパに連れられた就学前らしき男の子と女の子が席に着くなり「いただきますっ!」と叫ぶように元気な声をあげた。 思わず覗き込むとニコニコしながらソフトクリームに口をつけようとしているところだった。何だかほのぼのとした気分で嬉しくなる。平素の躾なのだろう。今更遅いが私は公の場でのこう云う躾をしてこなかった。

 思い出すと社員食堂でも「いただきます」と言いながら手を合わせる人が何人か居た。見習いたいと思いながら気恥かしさもあって、黙って手を合わせるのが精一杯だった。

2014年11月20日 (木)

青木功さん

 先週木曜日のクローズアップ現代 “ふたり”でつかめ  メジャー制覇松山英樹と石川遼~に青木功 さんが出演していた。相変わらず朴訥とした話し方は変わっていない。私より先輩と思っていたが1942年8月生まれだから72歳…お元気そうだった。

 で、思い出したことがあった。30数年前始めたゴルフ…職場の上司に連れられて何度かラウンドをしたことがあるが、ある時、回り終わってクラブハウスへ戻ろうとしていると、何処かで誰かが「アオキがいるぞーっ!」と叫んだ。当時は(今もそうだろうが…)アオキと云えば青木功 プロに決まっている。メンバー全員が急いで声のする方へ走った。そこで見たのはティーグランドで腹這いになっている本人と脇にもうひとり、くつろいだ雰囲気で縦膝で座っているゴルファーだった。練習ラウンドらしい。暫らくすると急遽集まったギャラリーの前でティーショットを打った。その打球の凄いこと…低い弾道で放たれたボールは相当向こうへ飛んでからグググーッと一段と高い放物線を描いて視界から消えた。プロの桁違いの凄さを身近に見た一瞬だった。

 それだけのことだが、その後数年してゴルフから遠ざかった… confident
06901 (1983.9月 筆者)

2014年11月 9日 (日)

深夜便の思い出

 耳元のイヤーホーンから の懐かしい曲が流れてきた。2時も少し過ぎた頃…「サウンド オブ サイレンス」続いて「4月になれば彼女は」「スカボロー フェア」「ミセス ロビンソン」………「ボクサー」そして、最大のヒット曲「明日に架ける橋」 LPは今でも書棚の片隅に… 完全に目覚めて聴いてしまった。

 このところラジオ深夜便も3~40分も聴けば眠りにつき(途中一度小用で起きるが)気が付けばアンカーの終わりの挨拶… そして5時、朝の番組「ラジオあさいちばん」からはうつらうつらと聴きながら過ごすことが多い。深夜便を聴き始めたのが12年ほど前、アンカーも随分入れ替わったが、お気に入りは葛西聖司さん(2007~2011)だった。語り口は少しオネエサンっぽいが親しみやすかった。番組の中でおやつを食べたりユニークだった。それから 松平定知 さんの朗読…藤沢周平作「蝉しぐれ」~「海鳴り」…時々寝てしまい聴き漏らしたが… 今はこれと言って待ち遠しいものが無いのがちょっと寂しい。

 で、今朝は3時過ぎからは小椋圭特集…「愛燦燦」「俺たちの道しるべ」は覚えているが、その後寝てしまった。

2014年10月 5日 (日)

ジム マーシャル

 日本プロ野球初の現役メジャーリーガー ジム マーシャル 1963(昭和38)年~1965(昭和40)年の3シーズン中日ドラゴンズで、ほぼフル出場の408試合。その間の打率 .268 本塁打 78本 打点 252 出塁率 .349 長打率 .472 (Wikipediaより引用)

 で、入団当時、暫らくはホテル住まいだったので、名古屋駅前のビルでよく見掛けた。そして、ある時、通りがかりに持っていたバットをひょいと私に手渡してくれた。短い言葉があったように思うが、よく聞き取れなくて覚えていない。しかし、そのバットは以後数年、私の手元にあって時折り振ってみたりした。
04401 1968(昭和43)年8月 (筆者28歳当時)

 バットは日本製でサインも名前も彫られていなかったので、練習用のものだったかもしれない。その後も暫らくはあったが、今はもう無い。因みに8つ先輩のマーシャルさん、お元気のようだ。

2014年10月 3日 (金)

アメリカ A、チャイナ C

リニア鉄道館の展示新幹線車両(普通車)の3列シートの窓側と通路側に着座した2人のレポーターがそれぞれ「私はアメリカ、私は中国…何だか分りますか~?」とスタジオのアナウンサーに問いかけた。当地NHK昨夕6時のニュースの中でのことだ。演技かも知れないが男女2人のアナは判らないふりをして首を傾げている。これを見ていた私は直ぐにピンときた。表題のとおりだ。(無線や有線で連絡する場合、間違いを防ぐため…特にBとEは聞き間違いが起きやすいため、ボストンのB、イングランドのEと伝えるようになっていると説明していた)

50数年前、私は門前の小僧だった。電話で英文電報を依頼しているスタッフの近くに居て、自然に覚えてしまったのがこの伝達方法だった。

JR東海では アメリカ、 ボストン、 チャイナ、 デンマーク、 イングランド と紹介していたが、スタジオの男性アナは「何故Bだけ都市の名前なのか?」などとピントはずれの質問をしていた。で、改めて門前の小僧だった私。試しに覚えているか書き出してみた。
 これはゴルフのローカルルールみたいなもので決まりはない(と思う)。あくまで当時の私の職場での例だ。実際の言い方は「アメリカのA、チャイナのC…」とか、間の「の」を言わないスタッフも居た。
はブリティッシュでJR東海とは違っていたが、後4つは同じ…F 以下は  フランス  ジャーマン  ホンコン I  ワタクシ(私) ジャパン  キング  ロンドン  メキシコ  ナゴヤ(名古屋)  オオサカ(大阪)  ペキン(北京)  クイーン   ルーマニア  スペイン  トウキョウ(東京)  ユニオン  ビクトリー  ワシントン  クリスマス  ヤップ オシマイ(おしまい) 他に、スペース、ハイフン、数字 などで依頼していた。

そして、のヤップの意味を今以て知らないことに気が付き調べてみた。
00101480 新コンサイス英和辞典(第2版 2000年)