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カテゴリー「門司の記憶」の7件の記事

2015年12月 8日 (火)

記憶の広がり

真珠湾攻撃’ 74年前の今日12月8日(現地時間7日)先の戦争が始まった。当時まだ2歳だった私には開戦時の記憶は無いが、その後身の回りに起こった事象の一端は子供なりに記憶に残ることとなる。一部はカテゴリー「門司の記憶」「金沢の思い出」に記した。

そして、昨年3月、北海道のご婦人から記事「兵隊さん」に関して以下のようなメールを頂いた。


 実は2012年6月3日の「兵隊さん」を読んで今になって反応をしています。あちらに書き込んでも読んでもらえないと思って。
 

69年前にフィリピンで戦死をした叔父が日本で最後に過ごした場所が門司の民家であったとのことを最近になって知りました。まだ存命している叔父の姉の母から、民泊で大変良くしていただいたので何か送ってやってほしいと叔父から頼まれ苦労をして塩鮭を手に入れて送ったのですが、途中で盗まれて門司には届かなかったと話を聞きました。 

物資が無い中、物をかき集めて戦地へ赴く兵士へ精一杯のもてなしをしてくれた門司の方たちに感謝の気持ちでいっぱいです。 

当時、叔父は19歳。随分としっかりしていたのだなと感心します。 (原文のまま 一部省略)


 このメールを頂いて当時のことが少し広がった。このことに限らず父母には昔日のことをもう少し聴いておけばよかったとこの頃よく思う。

2015年8月 9日 (日)

軍靴・ゲートル・戦闘帽?

 満5歳直前まで門司に居た。しかし、その門司に米軍の空襲があって親父の勤め先に爆弾の破片が飛び込み目の前で同僚が悲惨な目に遭って亡くなった。親父にとって相当ショックな出来事だったのだろう。母にその詳細を話していたのを今でも覚えている。当時30代後半の父は普段、戦闘帽?にゲートルをして軍靴を履いていたようだ。
00101480 勤務先所有の農園にて(1944<昭和19>年5月)  筆者註;食糧難に対応するため空き地や庭が農地に転用されたものと思われる。

 右は4歳半の私です。親父の左胸には名札のようなものが縫い付けられています。ただ私はこの農園のことは全く覚えていない… catface  親の庇護の下、何の不安もなく毎日を過ごしていたのです。

 この年の秋には一家4人で金沢の祖父宅へ疎開。幸い金沢は空襲を逃れた。

 ゲートル軍靴は戦後も暫らくは雪除けの時使っていた。

2015年4月 3日 (金)

サイレン

終戦前年(昭和19<1944>年)の秋に門司から金沢の祖父宅へ一家4人で疎開してきた。(このことは以前にも書いた) 当時、門司近辺は空襲が激しくなり、昼間でも空襲警報のサイレン が鳴った。
23012201_2 ‘外で遊んでいたボクは一目散に家の前の石段 を下駄の音を響かせながら駆け上がり帰ってきた’と母が生前云っていた、と数年前妹から聞かされた。自分では覚えていない自分のことを、その時は赤ん坊だった妹から聞かされるのは変な感じだった。

で、戦後暫くは時を知らせるため?鳴らされたサイレン を‘正午’は覚えているが、その他の時刻は記憶にない。それは浅野川大橋詰の交番横の鉄製の火の見櫓辺りから発せられた。(と思っている) 空襲に遭って逃げ惑った経験は無かったので素直に時報として受け入れていたが、後に、夏の花火の音は空襲を思い出しどうしても好きになれないと云う人が居ることを知った。とあれば、その方にとってはサイレン もそうであろうと察せられた。

 

もうあれから70年近くが経った。※画像は2005年10月撮影(一部戦前の家並が残る小路と家の前の石段) 団体旅行の折、自由時間を利用して… camera

2014年8月16日 (土)

防空壕とヘビ

昭和17(1942)年~昭和19(1944)年、門司では坂の途中の平屋に住んでいて、前庭の小さな池には金魚が数匹泳いでいた。北側の台所を出ると高い石垣(その上に隣家が…)をバックに坪庭があった。そこには大人が屈んでようやく頭が隠れるくらいの名ばかりの 防空壕 があり、夏になると時々その石垣の境目から ヘビ(青大将)が頭を下にして垂れさがっていた。まだ3~4歳だった私は発見すると直ぐ母に訴えるが「何にも悪さをしないからそっとしておきなさい」とその度にたしなめられた。

金沢への疎開直前には「空襲警報」が昼となく夜となく鳴り、父が仕事で居ない時などは母とその防空壕に飛び込んだ。そして、福岡?方面に向かって飛ぶ敵機とポンポンと炸裂する高射砲の煙をぼんやりと眺めていた。
00101_2 (その頃の母と私)

2013年2月18日 (月)

爆弾…思い出すこと

 昨日、浜松付近で先の戦争で米軍が投下した不発弾の処理があり新幹線が1時間ほど停まったと云うニュース報道があった。(同日、関西方面でもあったらしい)

 

 で、爆弾との関わりと云う点から振り返ってみると、日米開戦が2歳の時、終戦が6歳になる直前で、幸い直接爆撃に遭遇したことは無かったのだが、それに近いことは父が経験している。そしてその生々しい状況を聞かされたことは今も覚えている。

 

 門司に最初の爆撃があったのは調べてみると「昭和19(1944)年6月16日の深夜1時から約2時間にわたった…」とあり、次の大空襲が1年後(昭和20年)の6月29日と7月2日だったことから考えて、父の経験したのは最初の爆撃だったと考えられる。報道機関に勤務していて、当日は宿直だったのだろう。突然始まった米軍の空襲で近くに落ちた爆弾の破片が窓ガラスを突き破って飛来し同僚N氏の首を貫通したのだ。寸でのことで命拾いをした父だったが、その場面を目の当たりにした時のショックは相当のものだったと思う。帰宅して壮絶な一瞬の出来事を話す父の様子は忘れられない。このことがあってその年(昭和19年)の秋、一家4人揃っての金沢(祖父宅)への疎開となったのだと思う。金沢が空襲される前に終戦となった。
00401 被災前 昭和18年頃 職場の様子

2012年10月17日 (水)

病院船の火災-戦時中の記憶

 私を呼んだ父が「船が火事だ。見に行こう!」と云った。坂道を上がり頂上付近にあるS小学校(国民学校)の校庭付近に出た。港を見ると白い船腹に赤十字のマークを付けた大きな船から煙が上がっている。どれくらい見ていたのだろうか、その後の記憶は無い。たまたま父は休みだったのか、当直明けだったのか家に居た。門司は坂道が多い町だ。会社借り上げ(多分)の平屋の社宅が急な坂道の途中にあり、相角にはお寺があった。近所には遊び友達ナオユキ君が居て名前は今でも忘れない。何処で遊んでいても空襲警報のサイレンが鳴ると家の前のちょっとした階段を急いで上がり帰ってきた(と、生前母が云っていた)。私も何となく覚えている。金沢に疎開しなければ入学するはずだったそのS小学校は学校統合で今は無い。で、7年前の10月、団体旅行で門司レトロ地区へ行った折、自由時間を利用して幼少時分の記憶を辿りその付近へ行ってみた。予め現町名を調べておいたのでタクシーも迷わず連れて行ってくれた。これがその家だ。あれから既に60数年経っているのに、まだあることが信じられなかった。右隅には階段もそのままあった。
Moziie2007480mono 2005年10月(筆者撮影)

2012年6月 3日 (日)

兵隊さん

 物心がついた頃には父の転勤で門司に住んでいた…昭和17年半ば~19年秋の約2年間である。先の戦争の中盤から戦局が急を告げた終盤にかけてだ。門司港には前線へ向けて出撃するための軍艦や輸送船が頻繁に出入りしていた…(幼少の自分にも薄々分かっていた)。で、全国から集結した兵隊さんは出港までの数日間、一般民家が宿泊を受け持つことになっていて、我が家にも2~3人ずつ泊まっていったが、ある日、滞在中の一人の青年兵が木製の模型飛行機を作ってくれた。戦争中の苦難など知る由もない当時のボクにとってはただ嬉しかった。そして、その兵隊さんのクリクリッとした眼とにこやかな童顔は今でも鮮明に覚えている。ご健在であればもう90歳前後か…

 (後日談…約35年間住んだ前住地の町内に帰還兵だった方が居て「私は門司で民家に宿泊し戦地へ行った」と聞いたことがあった。同じ時期に町内の役をやっていて度々お会いしたのだが、もう少し詳しい話をお聞きしておけば良かったと今になって悔やまれる…)